曇りなき心の月を

感想ブログ(多分)

劇場版スタァライトを観てきました その③

◯はじめに

また映画を観に行ってきました。

BESTIAの音響めっちゃいいですね。レヴューシーンの迫力が増すのは勿論、細かいセリフや歌詞もしっかり聞き取れて非常に良い体験でした。あれで+200円くらいなのお得だと思います。

さて今回も『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の感想を書いていきます。

一応今回で締めにする予定ですのでよろしくお願いします。

※注意※

以下TV版~劇場版のレヴュースタァライトのネタバレを多分に含みます。

困る方はブラウザバックを、大丈夫な方はスクロールをお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは始めていきます。

◯劇スタァのここ好きポイント③

●塔を降りるとき

冒頭の場面でも、雨宮さんの脚本でも印象的に使われていた「今こそ、塔を降りるとき」というセリフ。

また色々な意味に取れる言葉ですが、基本は「卒業」に絡めて「新しい一歩を踏み出そう」という意味で使われていたと思います。

今までの自分が積み上げた努力と功績の塔を、一度崩す。門出に際して、新たな自分に生まれ変わるために。

タロットでの「塔」は破壊、逆位置では改革や破壊の後の再生を意味するカードです。スタァライトにおける「塔を降りる」は「再生産」の意でほぼ間違いないでしょう。

常により高く、より強く、より美しく自分を再生産していくためには、一瞬前の自分を壊し続ける必要があります。強くあるために、何度でもその強さを捨てる覚悟。革新の連続、毎日が進化の途中。

それこそが舞台少女だと簡潔に記した良いセリフだと思います。

だからこそ逆に、「停滞」は舞台少女の死なのですね。

 

●ワイルドスクリーン・バロック

さて「ワイルドスクリーン・バロック」とは一体何でしょうか?

私は元ネタの「ワイドスクリーン・バロック」の方も初耳で、これは「たくさんのアイデアを積み込んで時間や空間を激しく飛び回る」ような作品形態のことを指すらしいです。まさに『劇スタァ』的な映像区分だと思いますが、今作ではそれを「ワイルドスクリーン・バロック(以下長いのでWLSB)」として固有名詞にしています。

この「ワイルド」をどう受け取るかはまた難しいですが、ヒントは作中に結構散りばめられていたと思います。

 まずは冒頭のひかりちゃんの口上。「それが野生の本能ならば」と挟まるこのシーンで、「ワイルド≒舞台少女の本能」と受け取ることが出来ます。

 そこから皆殺しのレヴュー後のななのセリフ「(お菓子を)いっぱい作ったけど、皆すぐ飢えて渇く」という部分に繋がっていきます。これはななが第99回聖翔祭のループに皆を引き止めて置きたかった(その例えに甘くて美味しいお菓子を持ってくる所に彼女の優しさと独善がありますね)けど、舞台少女という存在が持つ前進力故に押し留めておけなかった、ということだと思います。

それから第101回聖翔祭決起会での、雨宮さんが壇上に上がってからの一連のシーン。ここで劇中スタァライトのセリフに擬して「舞台少女とは常に舞台を求めて飢え、それを満たすために己を進化させ続ける存在である」と明言されます。ここで「ワイルド」とは「舞台を求める飢餓感/舞台に立ちたいという本能」であることが分かります。

(「舞台の上」と「舞台の飢え」が掛かってる、という部分もあるかもしれません)

つまりこの「WLSB」というのは一種の舞台少女心得であるのだと思います。言葉にすれば「常に舞台人として豊かであり、新しい舞台を追い続け、何時のいかなる場所であろうと己という舞台の上であることを自覚しなさい」といった具合になりましょうか。

TV版でのオーディションが「舞台少女としての実力を測る」ものだったのに対し、WLSBは「舞台少女としての在り方を問う」ものであったのは、華恋たち99組のステージが上がったのだなと感じさせられます。これもハッタリとケレンの効いた良いワードセンスで、こういうこだわりや遊び心が作品の味付けに不可欠であるなぁなどと思ったりもしました。

 

●さいごのセリフ、あるいは新しい「ごきげんよう

次はWLSBのラスト、華恋とひかりのレヴューについてです。

ここはもう単純明快、お互いが相手にどうしても言わなければいけない言葉をセリフにして伝えるラストシーン……のはずなのですが、映像の圧力が高すぎて簡単に流せません。順番に振り返っていきましょう。

まずは2人の邂逅から。まひるちゃんとのレヴュー、キリンからの後押しを受け、自身の過ちと役割を理解したひかり。ひかりの拒絶とななの指摘から自分が何かを改めなければいけないと気が付きつつも、しかしそれが茫漠として定まらない華恋。

トマト(舞台少女の命)を摂取し上掛けも直り、準備が整っているひかりに対し、華恋は自分が取りこぼしてしまっているもの、背後のトマトを認識出来ていません。

舞台に上がれていない状態の華恋は、それをひかりの態度で悟ります。自分が未来に向かっていない、停滞しているという事実に、皆から一歩遅れて思い至る。そして「スタァライトが終わったら何もない」という自分を理解した彼女は一度、舞台少女としての死を迎えることになります。

(華恋は「私にとって、舞台はひかりちゃん」と言ってしまえる程ひかりへの依存度が強い。その一途さがTV版では突破口ともなりましたが、今回欠点として表れたそれを読み解く一助に『劇団アネモネ』があるかな、と思います。アネモネ花言葉は「はかない恋」「見放された」。そして特に赤いアネモネは「あなたを愛す」。ひかりの影響で始めた舞台、そこで不安や不足と隣り合いながら歩いた日々。まっすぐにひかりを思い続け、しかしそのまっすぐさ故に付いた傷。それらの痛みを「ひかりちゃんと運命の舞台」という劇薬で埋めていった結果が、この自分≒ひかりちゃん≒舞台と繋いでしまう強烈な同一視であるかな、と思います)

そうして約束の塔から葬送され、地に向かって落ちる彼女は、華恋色の「ポジション・ゼロ」へと再生産されます。後に分かる通りこれは棺で、嵐に飲まれていればそのまま埋葬となっていたことでしょう。

棺の中で列車に揺られ、未来へと進む中で行われる華恋の回想(あるいは臨死体験、走馬灯)。この中で華恋は、ひかりの介在しないところで過ごしてきた自分の「舞台」を思い出します。それは幼い自分を支えてくれていた保護者や、始めたばかりの舞台を共に過ごした仲間、夢へ走る自分を応援してくれていた友人、どれも「人」の形をしています。

西條クロディーヌにとって舞台とは「感情」であったように、恐らく愛城華恋にとって舞台は「人」なのです。それは「共に舞台に立つ人」、「いつかそうなるかもしれない人」だけでなく、このレヴューを通して「自分を見守ってくれている人」「舞台を観に来てくれる人」にも広がっていきます。

この意識の拡大が、ここまでずっと語られてきた「私達はもう、舞台の上」という主題と密接にリンクし、華恋がようやくこのWLSBに立つ資格が与えられたことを示します。(その証拠にようやくトマトを手に取る)

しかし華恋の変化はそこに留まらず、いままでずっと大事に抱えてきた約束を、過去の思い出(自分を形作るもの)と一緒に推進剤として燃焼させてしまいます。ひかりから華恋への唯一の手紙が燃えてしまうシーンは非常にショッキングですが、同時に深い納得もあります。

TV版でキリンが語ったトップスタァが生まれる瞬間の光景、奇跡とキラめきの融合が起こす化学反応。永遠の輝き、一瞬の燃焼。

舞台の上で全てを出し切り、自分の全てを燃やし尽くす。そしてそのキラめきが舞台と観客の心の中で永遠に反響し続ける。そんな本物のトップスタァへの一歩を、愛城華恋は踏み出したのではないでしょうか。

そうして華恋は列車に乗ってひかりの元へ帰ってきます。お互いに新たな名乗り口上を高らかに吠え、運命の決着、この舞台さいごのセリフへと移っていきます。才能も経験も練習量も上であるひかりから舞台の怖さと美しさを教わり(ここでひかりの「青」を取り込んだ華恋の剣が折れてしまうのは、魂のレヴューでの『ファウスト』の引用が続いているかな、と思っております)、華恋はTV版とは逆に(実力的に見ればおそらく順当に)ひかりに敗れてしまう。

そして遂に紡がれるさいごのセリフ、

「私もひかりに、負けたくない」

幼馴染のひかりちゃんではなく、舞台少女でライバルの神楽ひかりに、華恋はようやく出会えたのではないでしょうか。

ひかりの存在が大きく近く、あるいは遠すぎて、その実像が見えていなかった。自分への感謝もコンプレックスも知らず、ただ望む「ひかりちゃん」を押し付けていた日々に別れを告げ、2人は健全でありふれた、だけど一等特別なライバルへと変化していく。

空白と不均衡が育てた2人の認識の歪みが是正されて、逃げるしかなかったひかりも、無理やり繋ぎ止めるしかなかった華恋も、自然に相手と向き合うことが出来るようになる。これからは正々堂々、舞台の上で。

そんな2人の未来までも見えてくるような、シンプルなのに圧倒的で素晴らしいレヴューでした。演出含めて大好きです、このシーン。

 

●EDでの皆のその後

本編が終わってエンドロールの場面です。

華恋から逃げるのを止め、ロンドンから帰ってきたひかりちゃんが、99組の皆に会いに行く視点で良いんでしょうか。

取り敢えず新国立組3人のスピンオフ、めっちゃ読みたい…。全2巻くらいでどこかコミカライズとかしていただけないでしょうか……。

ここ3人はある意味舞台バカ組ですね。舞台そのものに邁進する舞台少女たち。

香子はんはバイクの免許、取ったんでしょうか。それとも置物として使ってるだけなんでしょうか。

仮に乗れたら、毎朝通勤に使うたびに双葉の事を思い出したり、いつか香子が双葉を後ろに乗せて走ったりするんでしょうか。ちょっとして欲しい。

クロちゃんは馴染んでいるようでなによりです。でもその窓に飾った鳥さんは一体…。

まぁ一番度肝を抜かれたのは留学純那ちゃんです。一般進学→海外で舞台留学というぶっ飛びっぷりはある意味純那ちゃんらしいというか、彼女はやるならとことんってタイプですね。狩りのレヴューで再生産された自分の、ありのままの選択だったのでしょう。

でもめっちゃびっくりしました。同時にとても嬉しかったですけど。

ななの王立演劇学院行きは納得が先に来ました。多分ななは「まだ学び足りないな」と思ったから入団でなく留学を選んだのでしょう。

その舞台(世界)の広さに気づかせてくれたのが誰かと言えば、勿論純那ちゃんですよね。

ななは純那的に、純那はなな的に自分をより善く変化させたのだと分かるこの2つの道行きは、豊かで新鮮で非常に良かったです。

そうして99組の皆と会う≒逃げた過去と出会い直すことが出来たひかりは、ホームのポジション・ゼロを越え新しい列車に乗ります。このワンカットが挟まることで「ひかりちゃん、大丈夫そうだ」と私達観客は安心することが出来ますね。

そしてEDが終わって、華恋のオーディションのシーン。

ここで「出席番号1番」が取れた名乗りをすることで、華恋が本当に卒業したんだなという一抹の寂しさを抱くと同時に、ああ、レヴュースタァライトが終わっても彼女たちの物語は続いていくのだなというある種の信頼と感謝を感じずにはいられません。

列車は必ず次の駅に。舞台少女は次の舞台に。

この言葉に真実重みを持たせるために、劇スタァは華恋たちの「その後」まで見事に描ききってくれました。

そしてそれは私に、この記事を読んでくれた貴方に、そしてこの映画を観た皆に、「次」へと進んでいくキラめきを届けてくれたと思います。

本当に、良い映画でした。

 

◯おわりに

書き始めると長くなったり、頭の中でこんがらがったりして大変でしたが、ようやく自分の感想を纏め終わることが出来ました。

レヴュースタァライト完結編としても、1つの映像作品としても、個人的で主観的な視聴体験としても、あまりにも凄絶で最高な映画でした。

この作品と出会い、この映画を観ることが出来た運命に心から感謝を送りたいです。

また製作に関わった皆様にも、本当にありがとうございました。キャストコメンタリーやインタビュー記事で現場でのお仕事に触れるたび、その誠意や熱意にただただ頭が下がる思いです。

まさか③まで掛かるとは思っておらず、無印から書き終わりまで一週間近く掛かってしまったのは本当に申し訳なく思っております。未熟を恥じ入るばかりです。

今回で一応私の感想記事は終わりになりますが、また劇スタァを観に行って何か思う所があったり、新しい動きなどあればしれっと追記していくかもしれません。

読んで頂いた方々にはここまで、あるいは今回までお付き合いいただきありがとうございました。また機会があればお会い出来ると幸いです。