曇りなき心の月を

感想ブログ(多分)

劇場版スタァライトを観てきました

◯はじめに

初記事はタイトル通り、先日観てきた『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の感想について書いていきたいと思います。

公開が延期されたこともあって自分の中でかなり期待度・ハードルは上がっていたのですが、実際観に行くとそんなものは軽々と飛び越えられてしまいました。

脚本、作画、音楽、演出全てが素晴らしく、TV版から続く物語の締めくくりとしても、『ロンド・ロンド・ロンド』との前後編映画としてもこれ以上ないほどの仕上がりだったと思います。

これから、その『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(長くなるので、以降は『ロロロ』・『劇スタァ』と記述させていただきます)を観て感じたこと、考えたことを纏めていきます。

考察というよりは、振り返りながら「ここ好き」ポイントを挙げていくような記事になります。

また観に行って新しい気付きがあれば、随時追加していく予定です。

 

※注意※

以下の記事にはTV版スタァライト  ~『劇スタァ』のネタバレを激しく含みます。

それでも問題ない方のみスクロールしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは始めていきます。

 

◯映画の大枠とテーマ

劇スタァは「卒業」というテーマのもとに、A組B組を含めた99期生の「未来・将来」についてのお話をしていく映画だったと思います。

テーマに沿って複雑に展開していくというよりは、テーマを土台に作品内のキャラクター達の「これが観たい!」「ここをまだ掘ってない!」という部分を盛大に踊らせた物語な気がします。

一種ファンディスクみたいな雰囲気がありましたね。

(実際パンフレットでは「プロットで言えば、卒業します、以上!」で済む映画だと監督・脚本のお二人がおっしゃっています)

ストーリーよりも登場人物たちの感情、そのあまりにも熱いうねりをメインに組み上げられた作品。

それを観て何を語るかと言えば、そりゃ登場人物について語るしかないでしょう。

彼女たちは何を思い、何と戦い、何処に向かっていくのか。

その想いが画面に、言動にどう表れていたのか。

そのあたりについてポツポツ書いていきます。

なお半箇条書き、映画内時系列無視の形になりますのでよろしくお願いします。

 

◯劇スタァのここ好きポイントたち

●トマト

まずはトマトから。(登場人物…?)

予告でもかなりクローズアップされていましたが、予想以上に印象に残る使い方がされていましたね。

花言葉は「感謝」や「完成美」など。

「舞台少女の命」として扱われていたように思えます。

それが身体に宿っていなければ、舞台に上がる資格はない。宿ってさえいれば、どんなときでも舞台の上。

キリンやB組の描写も合わせて、TV版よりも「舞台の外」「舞台を形作るもの」について広く言及した作品でしたね。

安直にザクロなんかにしないところが好きです。

 

●香子の意識の変遷

99組の中では割と不真面目担当として、「真摯さ」のカウンターパートを担っていた香子はん。

彼女が本気になることで、私達視聴者も「おお、香子がマジになるほどの事態なのか」とボルテージを上げることが出来ます。

自分の話をしていない時の香子は、作品のバロメーターでもあるのですね。

(自分や双葉の話をしているときは「舞台の上」であるため客観的指標にはならない)

そんな彼女が映画内で初めて地を見せるのは、5月14日について指摘するシーンです。

ここであのレヴューがまだ終わっていないこと、オーディションに参加した全員が、あの経験を夢や幻として忘れ去っていないことが示唆されます。

同時にこれは「未来」についてのお話なので、オーディションの過去を振り切れていない香子自身には「しょーもな」という評価になるわけですね。

そうして序盤に「やっぱり自分が一番がいい!トップスタァになりたい!」と我儘を暴走させる香子はんですが、ここで不貞腐れながらも見学に行く電車にちゃんと乗ってるところは成長かなぁなどと思ったり。

TV版で約束のレヴュー前だったら、多分本当に見学行かなかったんじゃないかな…?

我儘として表出してしまったものの、根底にあるのは「トップスタァになりたい」という想いであるわけで、それは双葉に「わざと負けて役を譲って」と下向きに引っ張っていた頃よりずっと前向きで健全です。

ななの皆殺し対象だったのでまぁ腐っていたことは間違いないのでしょうが、個人的には香子の前進が感じられて嬉しいシーンでした。

その後怨みのレヴューを経て(レヴューシーン自体に語りたいこともたくさんあるので後で個別に)、自分のもやもやと双葉との位置関係に決着を付けます。

個人的に一番好きなのはこの後で、かれひかのレヴューが終わり、皆で上掛けを手放すシーンです。

華恋の言うようにスタァライトが(華恋の物語としても、現実の物語としても)終わって、そのお別れを寿ぐ一種の卒業シーンなのですが、そこで一番先に上掛けを放るのが香子なんですよね。

ここが本当に好きで、一番レヴューにこだわって、ななとは違う面で「停滞」に囚われていた彼女が、一番先にお別れを言い、彼女の投げた上掛けが一番遠くへ飛んでいく。

レヴューでの約束も合わせて、これからの花柳香子の飛翔を予見するような、とても良い「卒業」だったと思います。

色々ダメな所もあるけど、私は彼女のことが結構好きです。

是非花柳彗仙としての大成を期待したい。

 

●怨みのレヴュー

香子はんと双葉はんの痴話喧嘩……と片付けてしまうのは簡単ですが、まぁ色々起きてるレヴューでしたね。

私の琴線の話をすれば、石動双葉の扱いについてが一番大きかったかなぁと。

双葉は華恋ほどではないけど割とスパダリ系、主人公系の少女で、努力家・誠実・ひたむきで対人の視力も良い結構人間の出来たやつです。

その優しさや前進力を、押し付けがましい男性性的な独善と捉えるセクシー本堂のシーンは個人的にかなり面白かったです。

バツの悪そうに目を伏せる双葉は、後ろめたい事が見つかった亭主のようで、「双葉の格好良さはエゴでもあるし、取りこぼしも割とあるよ」というメッセージに思えます。

後のデコトラ前での「ずるい!」発言もあって、石動双葉をある種のヒーローから一少女に戻す役割も持ったレヴューだったのではないでしょうか。

ちょっと双葉は格好良すぎ(あるいは都合良すぎ)たからね……。

香子の方もようやく「あ~このままじゃ舞台やめちゃうな~。誰か止めてくれないかな~(チラッ」みたいな面倒くささから、「他のやつもあんたの将来も知るかい!ウチを見ろ!」って言える面倒くささになっていましたね。

追いかけて欲しそうに流し目するよりは、胸ぐら掴んで自分に向かせるくらいの方が私は好きです。

まぁ結局「縁切りや」ってなっちゃうものぐさ根性が香子はんって感じなんですが…。

色々言いたいことがあって、でも相手の理も分かってて、押し付けるのも引き受けるのも面倒な香子は全部投げてしまう。

そこでちゃんと「嫌だ!」って双葉が言えるから、ふたかお何とかなってますね。

最終的に抱えてたものを全部さらけ出して、ぶつけ合って、お互い相手のいる場所を定位しなおします。

双葉は今の道をまっすぐ走っていく。香子は違う道を行き、それでも同じ高みを目指して歩んでいく。もう背負ったり背負われたり、待ったり待たれたりはしない。

そうしてラストのシーンに繋がっていくわけですが…。

あれはなんというか、思いっきり初夜のメタファーでしたね……。

いえこれはただの下世話な勘ぐりという訳ではなくですね。

今まで幼馴染として過度に密接していた二人が、お互いを一人の舞台少女・ライバルとして認識を改め距離を取ったことで、剥がれた傷跡からどうしようもなく溢れ出した感情が互いを求めてしまった。そうして肉体的にも繋がったことで、二人はようやく離れても進んでいけるようになった、というシーンだと思うんです。

言わば二人の「卒業」を前にどうしても必要なシーンだったのだと思います。

尖ったガラス片で上掛けの紐を切るの、完全に喪失の比喩表現…だったんじゃないでしょうか。

画作りも珍しく淫靡で、鮮烈ながら納得の行く流れだったと思います。

 

●純那ちゃん最高

ほぼキャラ萌えの話ですが、純那ちゃんは最高でした。

個人的に思い入れの強い子で、TV版2話で彼女が「誇り高い敗者」であったことが「この物語は青春と友情と努力の話をするぞ!」という非常にベーシックで力強いメッセージを受け取る端緒になりました。

レビュースタァライト自体が派手でケレン味に溢れた外装に、とても優しく堅実な物語を包んだ作品だと思っているので、私の中では純那ちゃんはそんなスタァライトに初めて出会わせてくれた存在なのです。

星見純那にスタァライトされてこの作品にハマったと言っても過言ではありません。

さてそんな純那ちゃん、今回の映画では「誇り高い敗者って、カッコよく言っても結局敗者じゃん」という部分を掘っていくことになります。

負けても挫けず下を向かず、努力を怠らず、自分星を掴む。

そんな純那ちゃんの煌めきを、「でも負けたら意味無いよね?」と結果論で殴っていく。

正直ここは本当に辛い場面で、追い詰められた純那ちゃんを観て胃がキリキリしました。

だからこそ、「自分の言葉じゃないとダメなんだ!」と奮い立ち、それが「殺してみせろよ!」という最高に格好良い啖呵に繋がる瞬間のカタルシスは凄まじいものでした。

TV版2話でも飛ばされたボタンを自分星として拾ったリベンジ根性が、砕かれた自分色の宝石でななの刀を上書きするシーンに繋がっていく。

負け犬と定められ、蔑まれた彼女が打ち合いの中でななの剣技を吸収し(多分そういうシーンだと思います。変化が弱点のななと、学習が長所の純那ちゃんを鑑みて)、おそらく単純な実力だけで言えば最強のななを打ち負かす。

最高のシーンでした。

どれだけめげずにあがく魂が美しくとも、合格し、勝者にならなければ舞台には立てない。

ならばこの美しい魂を持つ少女を、負け犬のままでは終わらせられない。

狩りのレビューはそんな製作陣の叫びが聞こえてきそうな、素晴らしいレビューでした。

いやぁ純那ちゃん最高だったなぁ……。

 

●大場ななという少女

純那ちゃんに触れたのでななについても語っていきたいと思います。

彼女については話したいことも多いのですが、まずは「皆殺しのレヴュー」から。

私は根本的に物語の構造フェチなので、皆殺しのレヴューの始まっちまった感にはめっちゃゾクゾク来て鳥肌が立ちました。

突然始まるレヴュー、舞台に変形する電車、ライトを背に浴びて待ち構えるなな、印字される「Wi(l)d-Screen Baroque」。

あのシーンで興奮しない人は居ないでしょう。

ここでななは「卒業」に際して、舞台少女として未来に進むに値しない「死んでしまった舞台少女」を切り捨てる役割を担っています。

死んでしまっている理由は様々ですが、そもそもその線引きをしたのは誰なのでしょうか。

ポジションだけ考えればキリンなのですが、彼が舞台少女の線引・足切りというようなことをするとはあまり思えません。

キラめきが足りていない少女の乱入も、キラめきを失った少女の再戦も「可能性」として受け入れたキリンが、舞台少女の生死について判定したとは少し考えにくい。

では誰がと言えば、まぁ執行人のなな自身なのでしょう。

変化に臆病な彼女のことですから、99組がキリンのオーディションを終えた後どんな状態だったのかは把握していたと思います。

そうして『ロロロ』を通して知った「舞台少女の死」を皆に自覚させるために始めたのが皆殺しのレヴューなんじゃないでしょうか。

というか『ロロロ』内のななとキリンの対話シーンが『劇スタァ』への打ち合わせシーンだったのかな……?

(個人的にロロロラストの「待ってたよひかりちゃん」が作品内でどのタイミングなのか気になっているのでご意見募集中です。キリンの「お久しぶりですね」とひかりの聖翔制服からTV版後~劇スタァ前だと思うのですが……)

おそらく「ワイルドスクリーン・バロック」自体の発案はキリン、「皆殺しのレヴュー」を頭に持ってきたのはなな、という形だと思います。

手段はどうあれ99期生みんなをずっと大切に思ってきたななのことですから、これも遠回りな愛情の発露であると思っています。

ここで「未来」へのアンチテーゼをやれるのは、立場・力量的に彼女しか居ないという部分もありますが、そういうメタ視点を抜きにしても、回帰と停滞を背負った彼女が未来へ続くレールに立ちふさがるのは納得がいきます。

「強いお酒を飲んだみたい」に関しては「え、ななちゃん飲酒経験が…?」と一瞬なりましたが、多分違うでしょう。

あれは役に入っているななは現実には知らない飲酒時の酩酊感を覚えることも出来るという、「もう舞台の上」であることの示唆だったんじゃないでしょうか。

逆に「何言ってるの…?」としか反応出来ない純那たちは舞台に上がれていないわけですね。

(でもループ経験中に飲酒経験が全く無いとも言い切れない…。たまに悪い子だからなぁ)

「皆殺しのレヴュー」で問題提起をした後、各々が自らの死体と向き合うシーンで、彼女もこの舞台を動かす立場から一人の舞台少女に戻る宣言をしますね。

ゲームマスターからプレイヤーへ身を移したななは、自分自身の問題点と向き合っていくことになります。

ではそれは何か、というと一言で表すのはとても難しい。

これは私の妄想半分ですが、ななは変化・時間の流れに対して非常に複雑な感情を持っている気がします。

自分の意志とは関係なく伸びる背丈と手足、それに追いつかない心、機会が訪れなかった中学の舞台、授かった才能に見合わない環境。

過ぎていく「時間」の中で、それを置き去りにしてしまう自分、取り残される理想。

基本賢く視野が広いななはそれをきちんと認識していたことでしょう。

そうしたものが少しずつ、ななに溝を作っていったのではないでしょうか。

その溝が、普段のななと舞台少女ななの乖離に現れているわけですね。

出会った運命の舞台の前に生まれた「舞台少女 大場なな」は、生まれたときからバロック(ここでは「歪である」の意で使います)だったということでしょうか。

そうして自分の中の置き去りと行き過ぎが交差する場所をようやく見つけ、ななはそれを永遠にしようとしてしまいます。

ずっと時間より先を走ってしまっていたななからすれば、毎日は止まっていたようなものでしょう。それをまた、再現するだけ。

それが実際間違っていることは後に華恋と純那が教えてくれたわけですが、それに薄々気が付きつつもななは停滞を選んでしまう。

停滞の揺り籠を是とする心の未成熟、あるいは時の流れに適応出来ず、流され変わっていく事を恐れるしかない不器用。

SFや心理学等に詳しくないので適当な言葉が見つかりませんが、造語でもよければ「タイム・コンプレックス」とでも言うべきものが、ななの問題点だと思います。

これを解消するためのマッチアップ相手に選ばれた純那ちゃんが、ななと逆の構造なのは面白いところです。

ななが時間軸上で「望む状態→現在→実際の立ち位置」という図なのに対して、純那ちゃんは「実際の立ち位置→現在→望む状態」という図になるんじゃないでしょうか。

そして届かない光に手を伸ばし続ける姿は逆しまで同じ。そんな二人が隣に居れば、惹かれ合うのもぶつかり合うのも運命でしょう。

始まった狩りのレビューで、ななは純那ちゃんに「生き恥を晒すな」と切腹を迫ります。

これは少し不思議で、自分の属性である諦め/停滞に染まっていく純那ちゃんに、ななは落胆、あるいは憤慨しているのです。

「私の再演の中にいれば!」と停滞に引き込むばかりだった彼女が、停滞する純那ちゃんに憤る。それはつまり、純那ちゃんには自分の足引きを振り払い、どんな時も前を向いて挫けず進み続ける「美しさ」を保っていてほしかったということでしょう。

進んで移ろって変わっていってしまうなら、全てを止めてしまいたいと願う彼女が、唯一前進を望む存在。それが星見純那であるわけです。

そんな純那ちゃんにレヴューでぶっ壊されて、ななはようやく後ろに手を伸ばすことを止めます。

私の大好きなあなたが、私より弱いあなたが。

変わっていける、前にすすめると言うのなら、私より前でキラめいていてくれるなら。

私もようやく歩いていけそうだと、ななは思うことが出来たのでしょう。

ななは過去にしがみつかなくとも、自分の愛したキラめきが未来にも生まれる可能性を信じられた。純那ちゃんは「今は、いつかは」なんて言わず、死ぬ気で今をもぎ取る自分を知った。

似ていなくてそっくりで正反対の二人が、自分に無い輝きに惹かれ、それを鏡に自分のキラめきを見つけ直すエピソードだったのかな、と思います。

後半ほぼじゅんななの話になってしまいましたが、実際このシーンは圧倒的に二人の話だったので許していただきたいです…。

こうしてななのコンプレックスは健全に改善され(無くなってはいないと思う)、舞台少女としての未来を見据えられるようになりました。

ななはメンタルさえ安定していれば最強なので、イギリスに渡った後も舞台、あるいはその裏方で八面六臂の活躍をしていることでしょう。

怪物に愛を教える役を見事に演じきった純那ちゃんに拍手を送りつつ、生まれ変わったななの未来に多くの幸せとキラめきが溢れていることを願います。

 

●『愛城華恋』

劇場でのキャストコメンタリー、あるいはパンフレットの製作秘話で、「華恋はストーリーの進行装置的な側面が強いキャラだ」というようなお話をしていました。

個人的には十分以上に個性を感じていたのですが、言われてみれば確かにそんな気もします。

元々華恋のことは好きでした。ちょっとおバカだけど、いつも本気で爆発力の高い良い主人公だと思っていました。

しかし今回彼女の過去編を観て、自分は全然華恋のことを知らなかったのだなぁと思い知らされました。

スタァライトのために生きてきた彼女の、スタァライトでない部分。

それは両親や友人、迷いや自責の形をして、私に飛び込んで来ました。

知らなかった華恋に触れ、空白が彫り込まれ、陰影が深くなっていく。

「主人公」という役である華恋が好きだった私が、愛城華恋という人間を好きになっていることに気づいて、改めて良い映画だなぁなどと思ったのでした。

 

◯一応のおわりに

ザーっと感想だけ書いて終わらせるつもりだったのですが、書き始めたら色々止まらなくなって終わりが見えないので、一旦ここでこの記事は終わらせます。

まだ書きたい事柄が割と残っているので、それらは新しい記事に②とでも振って続けようと思います。

ここまで読んでくれた方がいらっしゃいましたら、お付き合いいただきありがとうございました。

続きはまた劇スタァを観に行ったりしつつのんびり書きます。